- 病気平癒祈願神社を探している
- 富部神社について知りたい
- 富部神社の歴史を知りたい
- 富部神社の神様について知りたい
- 病気平癒祈願の方法を知りたい
みなさん、こんにちは。
今回は、名古屋市南区呼続にある、病気平癒祈願で知られる富部神社を紹介します。
この特集では、富部神社の病気平癒のルーツを探り、具体的な祈願方法についても紹介します。
富部神社の創建には、特別な逸話が伝えられています。江戸時代初期に活躍した清州城主、松平忠吉(徳川家康の四男)が病気平癒を祈願し、すぐに快復したという話です。
こうした逸話から、富部神社には病気平癒、健康増進、厄除け・厄払いのご利益を求めて多くの人々が訪れます。
境内には、心願成就の絵馬や病気平癒のお守りがあり、参拝者の心の支えとなっています。また、境内とその周辺からは古墳時代後期から奈良時代にかけての遺跡が発見されており、この場所が歴史あることがわかります。
こうした背景もあり、名古屋のパワースポットとして人気を集めています。参拝に訪れると、森に囲まれた神聖な空間で心身が浄化され、ご利益を感じることができるでしょう。
本記事では、富部神社の歴史や由来、祈願方法の他、境内の見どころなども合わせて紹介します。参拝の参考になれば幸いです。
皆様の健康と笑顔あふれる日々をお祈りします(*^-^*)
富部神社に隣接する長楽寺の記事も掲載しましたので、こちらも併せてご覧ください!
長楽寺の見どころをたくさん紹介しています。
富部神社について
富部神社の由来
富部神社は、慶長8年(1603年)、愛知県の津島神社から牛頭天王(素戔嗚尊)の御分霊を天神山に奉祀したことが始まりとされています。
慶長10年(1605年)、清須城主の松平忠吉が病気になり、蛇毒神天王に病気平癒の祈願をしたところ、すぐに快復しました。
感謝のしるしとして、慶長11年(1606年)に現在の場所へ本殿・拝殿・祭文殿・廻廊を寄進しました。
同時に、神社の東に神宮寺天福寺を建立し、社僧を置きました。また、神社には百石の社領が与えられ、毎年尾張藩主からの寄進があり、黒印地として格式を誇っていました。
創建以来、「富部蛇毒(とべじゃどく)神天王」「蛇毒神天王」「蛇毒神社」と呼ばれていましたが、明治元年(1868年)に「富部神社」と改称されています。
蛇毒神社は、現在の位置から西に進んだ呼続公園の曽池南側、天神山にあったとされています。『尾張名所図会』の古書には、図の上部に「天王旧地」と記されています。現在、その場所には高台が残っています。
黒印地とは?
江戸時代、大名が黒印状と呼ばれる文書を発行することで、神社・寺院に領有権を認めた土地を指します。
古くからこの地は戸部村と呼ばれ、『八幡宮縁起』によれば、牛頭天王が勧請される以前は八幡社が氏神として祀られていたとされています。
以下は『戸部村考』の「元八幡宮ト戸部村 八幡宮縁起ニ」を要約した内容です。
参考文献:荒川銀次郎著作 『戸部村考』元八幡宮ト戸部村 八幡宮縁起ニ 昭和46年5月1日発行 p. 8
富部神社の西方は、伊勢湾に面しており、商船が出入りし、漁業も盛んでした。
この繁栄に因み、八幡社に宗像三女神を祀ったのだと思われます。八幡社は現在の野球場あたりにあったようです。
明治41年に八幡社は白山社とともに合祀され、富部神社の相殿として祀られました。
本殿の中央に素戔嗚尊、左に菊理媛神(くくりひめのかみ)、右に三女神の田心姫命(たごりひめのみこと)、湍津姫命(たぎつひめのみこと)、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)が祀られています。
富部神社の御祭神とご利益
- 富部神社のご利益
-
厄除け、開運、病気平癒、縁結び、商売繁盛
以下は、本殿にお祀りされている神様の御神徳です。
主祭神
素戔嗚尊(スサノオノミコト)
厄除け・疾病除け | 人々を災いや不運、病気から守る力があります |
病難除け・病気平癒 | 悪い病気や邪気を祓い癒す力があります |
文学・学問上達 | 日本で初めて和歌を詠んだことから、学問や文学の成就の力があります |
縁結び | 櫛名田比売と結婚したことから、縁結びや夫婦和合のご利益があります |
御相殿の神様
田心姫命(タゴリヒメノミコト)
田心姫命は、天照大御神と素戔嗚尊の誓約から生まれた宗像三女神の長女。
航海安全 | 海上での安全を守護する力があります |
安産・子育て | 安産や子育ての神として信仰されています |
縁結び | 縁結びや夫婦和合のご利益があります |
湍津姫命(タギツヒメノミコト)
誓約で生まれた宗像三女神の次女。
航海安全 | 海上での安全を守護する力があります |
交通安全 | 交通安全の神として信仰されています |
知恵 | 知識や知恵を授ける神として信仰されています |
市杵島姫命(イチキシマヒメノミコト)
誓約で生まれた宗像三女神の三女。弁財天・弁天様と同一視されています。
航海安全 | 海上での安全を守護する力があります |
交通安全 | 交通安全の神として信仰されています |
金運・財運向上 | 金銭的な幸運をもたらす神として信仰されています |
商売繁盛 | 商売繁盛のご利益をもたらします |
菊理媛神(ククリヒメノカミ)
菊理媛神は『日本書紀』に登場する神様で、伊邪那岐命と伊邪那美命の喧嘩を仲裁しました。菊理媛神の力で、二神は円満に別れることができました。
和合の神 | 縁結びや夫婦和合のご利益があります |
縁切りのご利益 | さまざまな縁を切る力があります(悪い病気の縁を切ってもらえる) |
素戔嗚尊とはどんな神様?
素戔嗚尊は須佐之男命とも呼ばれています。どんな神様なのか紹介します。
津島神社でお祀りされている素戔嗚尊の荒魂(あらみたま)、和魂(にぎみたま)、奇魂(くしみたま)、幸魂(さきみたま)の4つの御霊についてや、御魂の六社参りの仕方、それぞれのご利益について詳しく解説しています。
どうぞこちらも合わせてご覧ください♪
須佐之男命は、筑紫の日向の阿波岐原の海浜で誕生しました。
伊邪那岐命(いざなぎのみこと)が黄泉の国から逃げ帰り、穢れを落とすため禊祓(みそぎはらえ)を行います。
朝日の当たる清らかな場所で神々が誕生し、災いの神も生まれ、災いに打ち勝つ神も生まれます。
最後に尊い三柱の神が誕生します。伊邪那岐命が左目を洗うと天照大御神、右目を洗うと月読命、鼻を洗うと須佐之男命が誕生します。
伊邪那岐命は、三柱の神(三貴子)にそれぞれの役割を命じます。天照大御神には高天原を、月読命には夜の世界を、須佐之男命には海原を治めるように命じました。
しかし、須佐之男命は母に会いたくてすさまじいありさまで泣き続けます。その様子を見た伊邪那岐命は彼を追放します。
須佐之男命は姉である天照大御神に、いとまごいのあいさつをしに高天原へ向かいます。途中で山や川が鳴り響き、地震が起こります。
天照大御神はこれを見て弟の到来を警戒し、戦の準備を整えます。手に弓を持ち、堅い庭を蹴散らして雄たけびをあげ、「何をしに来たのだ!」と問います。
問いただされた須佐之男命は、「いとまごいのあいさつをしに来ました。邪心はありません」と答えます。
天照大御神は潔白を証明する方法を尋ね、須佐之男命は「各々誓約(うけい)を立てて子を産みましょう」と提案します。
誓約(うけい)とは?
あらかじめ行為の善悪吉凶を想定し、結果によって神意を判定する占いの一種のこと。
古事記によれば、国生み、神生みを終えた伊邪那岐大神は「淡海(おうみ)の多賀に坐すなり」とあります。
近江の地に隠棲(いんせい)されたようです。淡海(近江)の多賀は、多賀大社の起源となっています。
お互いに子を産むことで神意を占うことになりました。女子が生まれたら邪心あり、男子が生まれたら潔白とされ、天安河(あめのやすのかわ)を中にして向かい立ち、誓約(うけい)をしました。
最初に天照大御神が、須佐之男命の十拳剣(とつかのつるぎ)を三つに折り、天真名井(あめのまない)の水で濯ぎ、噛んで吹き出すと三女神が生まれました。次に須佐之男命が天照大御神の勾玉を受け、天真名井の水で濯ぎ、噛んで吹き出すと五男神が生まれました。
この出来事により、五柱の男神を生んだ須佐之男命の潔白が証明されました。天照大御神は、その後、「後から生まれた五柱の男の子は、わたしの持ち物から生まれたのだから、わが子である。先に生まれた女の子は、おまえの持ち物から生まれたのだから、おまえの子だ」と宣言されます。
富部神社の三柱の女神(田心姫命、湍津姫命、市杵島姫命)はこの誓約から生まれた神様とされています。その後、須佐之男命は、追放されるまでいたずらを繰り返しました。
須佐之男命がいたずらを繰り返したため、高天原から追放され、出雲国斐伊川のほとりの鳥髪に降り立ちます。そこで泣いている老夫婦に出会い、彼らから娘(櫛名田比売)が八岐大蛇の生け贄になると聞きます。
須佐之男命は娘をもらい、櫛の姿に変えて髪に挿します。そして、大蛇を酒で眠らせ、十拳剣で倒します。切った大蛇の尾からは立派な太刀が現れ、これが後に草薙剣と呼ばれるようになります。この剣は三種の神器の一つであり、最初は「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」と呼ばれていました。この剣には不思議な力があったので、天照大御神に献上しました。
草薙剣は、歴代の天皇が皇位のしるしとして受け継ぐ三つの宝物の一つです。
大蛇を退治した須佐之男命は櫛名田比売と結婚し、出雲国の須賀に宮殿を建てて住みました。須賀の宮を建てた際、この地から雲が立ち上り、次の歌を詠みました。
「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」
櫛名田比売(くしなだひめ)と結婚した後、須佐之男命に子どもが生まれます。子どもが生まれると、地下の根の国堅洲(かたす)に住まいを移します。時が経ち、六代目に大国主命が誕生します。
大国主命が兄に追われて根の国にやって来た時、さまざまな試練を与えます。大国主命は試練をいやがり、生太刀(いくたち)、生弓矢、天の詔琴(のりごと)を持ち出し、娘の須世理毘売をかつぎ根の国から逃げます。
須佐之男命は、大国主命を黄泉平坂まで追いかけますが、最後は「娘を正妻とし、国を治めよ」と言い、大国主命を応援します。そして、根の国から帰った大国主命は、太刀と弓矢を使い兄弟の神々を追い払い、国を作り、大国主大神となりました。
根の国は、黄泉の国と同一視されています。
参考文献:執筆 茂木貞純 加藤健司『神話のおへそ』「第1章神話の世界を読むⅠ」、監修 神社本庁、発行所 株式会社 扶桑社 p. 52~p. 79 2012年2月20日初版発行
本殿
富部神社の本殿は、平成7年1月~9年1月に大修復されています。本殿の華やかな装飾は、桃山時代の様式を伝えていると言われています。
松の彫刻を施した蟇股(かえるまた)、屋根の装飾の蕪懸魚(かぶらけぎょ)、桁隠し(けたかくし)などの美しさがきわだち、昭和32年(1957年)国の重要文化財に指定されています。
屋根の檜皮葺(ひわだぶき)は、何度か修繕されてきましたが、年月が経ち、カラスにつつかれるなどして傷みがひどくなっていると氏子さんが話していました。
拝殿正面から蟇股(かえるまた)を見る事ができます。
拝殿
拝殿・祭文殿・廻廊と、享保12年(1727年)作の山車(高砂車)は、名古屋市指定有形民俗文化財に指定されています。
末社
居森社・八王子社・富部龍王社
居森社は、素戔嗚尊の幸魂をお祀りしています。
八王子社は、素戔嗚尊の五男三女をお祀りしています。
富部龍王社は、素戔嗚尊、八俣大蛇の掛け軸をお祀りしているともいわれる。
金毘羅社
明治9年、志水より遷し、社は旧白山社を再建したものだそうです。大物主神をお祀りしています。
秋葉社
加具土神をお祀りしています。
富部神社の歴史
慶長8年(1603年)津島神社の素戔嗚尊の御分神を天神山に奉祀
松平忠吉は、慶長10年(1605年)ごろから病気になり、一時は重篤な状態になるも、薬を飲み、蛇毒神社に病気平癒祈願をして快復する
慶長11年(1606年)病気平癒祈願のお礼に、本殿、拝殿、祭文殿、廻廊を建立。同時に神宮寺天福寺も建立
明治元年(1868年)主祭神である蛇毒気神は素戔嗚尊と同体とされ社名を蛇毒神社から富部神社に改称
明治4年(1871年)神仏分離令により天福寺は廃止され寺は取り壊される
明治11年(1878年)に天王社を中心に、八幡社と白山社が合祀され現在にいたる
松平忠吉の病気平癒祈願の背景
富部神社と松平忠吉にはどのような関係があったのでしょうか。
松平忠吉は、関ヶ原の戦いで負傷し、持病もあって体調を崩していました。
彼は病気平癒を願い、富部神社に深く関わることになります。
富部蛇毒神天王(蛇毒神天王)についての由来には、様々な説があります。その由来を探ることで、富部神社がどのようにして病気平癒の信仰を集めるようになったのかが分かります。
以下に荒川銀次郎氏の『戸部村考』「尾州愛智郡富部天王縁起」、「蛇毒神天王由来記」の原文をもとに概訳したものを紹介します。
尾州愛智郡富部天王縁起
以下、著作 荒川銀次郎『戸部村考』「尾州愛智郡富部天王縁起」です。
概訳は分かりやすくするために、現代の言い回しにしています。
概訳
参考文献:荒川銀次郎著作 『戸部村考』 昭和46年5月1日発行 「尾州愛智郡富部天王縁起」 p. 9~p. 10
この縁起によれば、牛を連れた女神が登場します。縁起では、蛇毒神天王は女神であったようです。
富部天王の『富部』という名称は、礼祭の時に豊かな祝福を庶民と享受したことにより付けられたようです。
蛇毒神天王由来記
忠吉は、慶長10年(1605年)頃から寄生虫の病気にかかり、病状が悪化していきました。
命が危ぶまれる中、蛇毒神天王が現れる不思議な夢を見て病気平癒を願うことになります。
その後、奇跡的に快復したため、恩恵に感謝し、慶長11年(1606年)に富部神社を建立しました。同年薩摩守にもなっています。
以下が、著作 荒川銀次郎氏の『戸部村考』「天王社由来記」の「蛇毒神天王由来記」原文紹介と概訳です。
原文は長いので途中省略しています。
原文(途中省略あり)
蛇毒神天王由来記
引用:荒川銀次郎著作『戸部村考』 「天王社由来記 蛇毒神天王由来記」 昭和46年5月1日発行 p. 13~p. 14
慶長八年卯八月吉日
尾州愛知郡戸部邑天王由来、戸部村蛇毒神天王慶長癸卯年八月十三日夜半此の当村へ御とび来り給う、弥五郎と申す者に御かきよらせ、我当国津島八王子天王にて有之候、当所天神山とび来り候、我を信心し奉らば何程の諸悪事諸病ふり来り候共守りのがさん〔中略〕…薩摩守様御願ひ為成、御命あやうき様に相見へ御城中驚き給う、其時天王枕神に為立給へば、薩摩守へば、薩摩守様御夢さめ、おゝせられ被願候は不思議な夢見たる事哉、さる為に壺を持来其壺より薬を口へ入れ候へば殊の外気持能候と被仰、是れは何者ぞとはかせを寄せ御夢被成へばはかせ申候はこれより三里戸部村へ津島より天王御とび被成殊の外はやり申由に候定而し此天王にて御座候へしと申候へばさがしつゝ営御老中御名代御来宮被成候天王へも申上候は殿様御本腹被為遊候は津島門前可致と御立願を御掛被成候へばやが而御本腹被成候御家中不及申上御城下の人々下々に至る迄喜悦をなし清須總町中より踊舞狂言雪霜をも天王おなぐさめ、しんじん仕り巳年中より同午年春中迄御晋請御座候本社会拝殿弥五郎当伊守堂、御魔堂、車貮輌天福寺共建立被成候。
〔中略〕…薩摩守様戸部蛇毒神天王御余宮被遊候。而しまた橋御上がり被成天王も理正あらば国中の者を守らんより、我一人を弥々息災に守給へと御申被遊候。
而し是れは当座の花から代とて戸部村の内高百石と被給候間御被下候〔後略〕。
概訳
参考文献:荒川銀次郎著作 『戸部村考』「天王社由来記 蛇毒神天王由来記」 昭和46年5月1日発行 p. 13~p. 14
松平忠吉が夢から覚めて壺から飲んだ薬は何だったのでしょうか?個人的には、富部神社近くの桜神明社から湧き出る清水ではないかと考えます。この清水は、川になり境内の北側の谷から西へ流れ、浜まで続いていました(神社の氏子さん談)。
蛇毒神天王由来記「壺の薬」の真相
牛頭天王(素戔嗚尊)は、病気や災難から人々を守る力があります。八坂神社でお祀りされている主祭神の牛頭天王は、薬師如来(やくしにょらい)を本地仏としています。
薬師如来の特徴は、左手に薬壺を持っている姿に表れています。
薬師如来は、菩薩の時代に「十二の大願」を立てました。その十二の大願の中には「除病安楽: 病気の災いを除き、身心を安楽にする」というものがあり、大願を全て果たして如来となられました。医薬を司る仏様の意味で「医王」という名もあります。
天王由来記を読み解いてみると、薬師如来がこの世の人々を救済しようとして牛頭天王の化身となり、津島神社から戸部村の天神山へ蛇毒神天王として飛来し、この地に蛇毒気神の力が宿ったと考えることができます。
このことから、「壺の薬」は、薬師如来の壺を指すものと考えます。そして「薬」は、富部神社周辺の湧き水だったのではないかと推測します。
松平忠吉が病で苦しんでいる時、薬師如来の化身である蛇毒神天王が夢に現れました。目覚めた後、藁にもすがる思いで壺の薬を飲むと、病が快方しました。そのため忠吉は、感謝の念を抱き、薬師如来を本尊とする天福寺を建立したと推測します。
当時の人々が病を治すために、神仏に対して強い祈りと信仰を抱いていたのが伝わります。
この時代、病気が治ったことは奇跡的な出来事だったと思います。
蛇毒神天王旧跡地:その場所を探る
天福寺は、建立される以前は華王院と呼ばれ、明治4年(1871年)の神仏分離令により廃寺となりました。
その天福寺の旧跡地は塔頭塚と呼ばれ、現在は住宅地となっています。塔頭塚は昭和4年まで残っていました。
また、天神山にあった天王社の旧跡は天神塚と呼ばれ、華王院の旧跡地とされています。
著作三渡俊一郎氏昭和61年発行の『南区の歴史』によると、この華王院は曽池南部の高台にあったとされ、現在は削平されて野球場になったと記されています。
『戸部村考』には、この場所には大型の宝篋印塔(ほうきょういんとう)があり、昭和44年に墓石を整理して長楽寺本堂前に安置したとあります。この墓石が誰のものかはわかっていません。
『尾張名所図会』によると、天王社の旧跡は曽池南部に記されているので、現在の野球場とこの高台のあたりにあったと考えます。
この高台の木々の樹齢がそれほど古くないため、削平作業時に出た土で造成された可能性があります。
現在、この高台には昔の面影は残っていませんが、野球場を整地した際に古墳後期の遺物が出土しました。
かつてこの地を治めていた権力者の古墳があったのかもしれません。
曽池遺跡
呼続公園一帯にある曽池遺跡は、公園内の野球場(曽池南側)を造るとき、古墳時代から奈良時代にかけての多量の須恵器が出土しています。
また、富部神社境内からも発掘調査で奈良時代の須恵器が採集されています。公園の西側からは、漁業を主としたことを証明する木器の漁具や船材などが出土しています。
次は、津島天王が戸部村に勧請された実際の経緯はどうだったのか解説します。
参考文献:荒川銀次郎著作 『戸部村考』 「蛇毒神天王社(富部天王)諸説 天神塚ト塔頭塚」p. 13
三渡俊一郎著作 『名古屋区史シリーズ 南区の歴史』 p. 83、p. 190
蛇毒神天王の真の由来とは?
慶長8年(1603年)に津島天王の御分神(神の分霊)が戸部村に迎えられ、慶長11年(1606年)に現在の場所に遷宮されました。
『戸部村考』によると、蛇毒神天王の降臨を伝えた弥五郎は、津島堀田家の一族の人で、御分神と共に船で呼続ヶ浜の戸部の岡に到着したと記されています。
このため、弥五郎は津島信仰を広めるためにやってきた人物だと考えられます。天王をお迎えしてお祀りした後、弥五郎は富部神社の禰宜(ねぎ)になったそうです。
戸部村には、新たな神様として天王を祀る前に、八幡様が祀られていました。そこで、弥五郎は「津島より天王飛び来り…我を信じ奉らば」と触れ回り、神様の強い力を村人に知らしめたと解釈できます。
津島神社には、堀田弥五郎正泰の祖先の武内宿祢(たけのうちのすくね)を祀る「弥五郎殿社」がありますが、富部神社にも昔あったそうです。
『富部神社考』には、津島神社御師(おし)の布教活動があり、この地に津島信仰を広めたとあります。
津島御師は、織田信長や尾張藩の保護を受け、他国への布教活動が許されていたため、津島信仰の勢力が拡大していったと考えられます。
禰宜とは?
禰宜は、神社に仕える神職の職称の一つです。宮司を補佐する役目を担っています。
御師とは?
御祈祷師を略した言葉です。特定の寺や神社に所属し、参拝者や信者に祈祷や案内、宿泊などの世話をする神職のことです。御師は、人々が安心して信仰活動を行えるよう支援していました。
参考文献:荒川銀次郎著作 『戸部村考』 彌五郎殿社 昭和46年5月1日発行 p. 6
原藤広著作 『富部神社考』 2013年10月発行 p. 23
松平忠吉公のその後
松平忠吉は、慶長10年(1605年)に津島神社に本殿を寄進しています。
津島神社でまず病魔退散を祈願し、その後、富部神社を建立することで、薬師如来の力を持つ素戔嗚尊に更なる救いを求めたのだと思います。
松平忠吉は蛇毒神天王に参拝し、一心に祈った結果、病気が快復しました。
しかし、慶長12年(1607年)江戸へ行き父の徳川家康、兄の秀忠に会った数日後、病により28才で亡くなりました。
ここで思うことは、いかに神仏を信じても、病気を克服することは容易ではない現実があります。信仰や祈りが心の支えとなる一方で、限界もあると受け入れる必要があります。どれだけ一心に願っても、望む結果が得られないときがあります。そんな時、人は無力感や弱さを感じるのかもしれません。自分が弱いと感じた時、人はどのような行動をとるべきなのでしょうか。忠吉は病気が平癒した後の1年間、自分の人生を精一杯生きたのだと思います。自分のために建立した神社であっても、人や社会のために貢献できたことは、忠吉の強さの表れだったと思います。忠吉の祈りが神様に届いたのかと考えますが、生かされた時間の中で、神社を建て、信仰を後押ししたこと、そして最期に江戸で父や兄に会えたことは、大きな慰めになったのではないかと思います。
忠吉公の深い信仰と尽力に心から感謝します。
武将たちが飲んだとされる湧き水
富部神社創建の由来には、松平忠吉の逸話が重要な役割を果たしています。
「蛇毒神天王由来記」にも記されている忠吉が飲んだ薬は、実は湧き水だったのではなかったかという説があります。
そこで、その湧き水について紹介します。
長楽寺の境内には、「蓬莱の水」と名付けられた湧き水があり、この水を戦国武将たちも飲んだとされています。
現在も長楽寺にある医薬留薬師如来が祀られている井戸から汲んで飲むことができます。(この井戸の水は当時と同じ水脈の湧き水なのだそうです)
この奥に湧き水が出ている湿地があります。「私有地なので入ってはいけない」と看板に書かれているので入らない方がいいですね(^^♪
富部神社は名古屋のパワースポット
昔、桜神明社を水源とした湧き水が流れ出て、呼続浜まで川を形成していたと言われています。
その水源となっている地層は、約100万年前に形成されたもので、学名は熱田層と呼ばれます。
熱田層は、上部の砂層と下部の海成粘土層を主体とした帯水層で、今も豊富な地下水をたたえています。
地面の奥深く、岩盤や粘土層を縫うように流れる地下水脈は、まるで龍のようにうねりながら、高い所から低い所へと流れ、地球のエネルギーを運び続けています。
そして、大地の生命を支え、自然のバランスを保っています。
湧き水は地域によって「霊泉」とも呼ばれ、信仰の対象になることがあります。
富部神社周辺でも豊富に湧き水が出ており、まさにパワースポットと呼ぶにふさわしい場所です。
このような大地のエネルギーが感じられる場所だからこそ、自然の力によって人々が癒され、病気平癒を願うことができるのだと思います。
病気平癒祈願の方法
病気平癒祈願とは
病気平癒祈願は、病気が早く治るよう、また心身ともに健康になるように神様に祈ることを指します。
手術を受ける前やなかなか病気が治らないなど不安がある場合は、ご祈祷をしてもらいましょう。
ご祈祷は神聖な空間で祈ることができ、より強い祈りが神様に届くかもしれません。
富部神社祈りのポイント
素戔嗚尊は厄除けや災難除け、病気平癒などのご利益を授けてくださる神様です。
また、御相殿の菊理媛神(ククリヒメノカミ)は、悪縁を断ち切るご利益があります。悪い病気との縁を断ち切り、病気平癒を願い、健康を取り戻すために祈りましょう。
病気平癒のご祈祷と祈願方法
- 病気平癒祈願の手順
-
- 神社を訪れる: 事前に電話で予約や確認をしましょう。
希望の日時を電話で予約 電話受付時間は9:00~15:00です。TEL:052-821-2909 - 祈祷の申し込み: 受付で心願成就祈願を申し込みます。願い事を祝詞にこめて、ご祈願していただけます。
(各種祈祷の申し込みは、ホームページをごらんください)
富部神社ホームページ https://www.tobe-shrine.org/worship-yakuyoke - ご祈祷の実施: 神職によってご祈祷が行われます。ご祈祷中は心静かにお祈りしましょう。
- 授与品の受け取り: ご祈祷が終わった後、神社からお守り「病気平癒御守」を受け取ります。
- 神社を訪れる: 事前に電話で予約や確認をしましょう。
- ご祈祷を受ける際の注意点
-
- 電話で事前確認
- 代理で家族や知人の方が代わりに参拝する場合は、病気の方の氏名や住所などを紙に書いて持っていきましょう。
- 授与されたお札やお守りは丁重に扱いましょう。身につけたり、身近な場所に置いたりするといいでしょう。
一般参拝をして病気平癒を祈願する場合は、お賽銭を上げ、二拝二拍手一拝の基本的なものでいいでしょう。
富部神社の拝殿には下記の「神社拝詞(じんじゃはいし)」が置かれています。
神社拝詞は、神社に参拝した時に個人で奏上するものです。一緒に奏上しましょう。
神社拝詞に先立って唱える「祓詞(はらへことば)」もありますが、簡略にした「略祓詞(りゃくはらへことば)」を唱えても良いそうです。
略祓詞
祓へ給へ 清め給へ
引用:発行者 板倉良一 『神道を知る本‐鎮守の森の神々への信仰の書 』 p. 70
神社拝詞
掛けまくも畏き 何神社の大前を拝み奉りて恐み恐みも白さく 大神等の広き厚き御恵を辱み奉り 高き尊き神教のまにまに 天皇を仰ぎ奉り 直き正しき真心もちて 誠の道に違ふことなく 負ひ持つ業に励ましめ給ひ家門高く身健に 世のため人のために尽さしめ給へと恐み恐みも白す
引用:発行者 板倉良一 『神道を知る本‐鎮守の森の神々への信仰の書 』p. 72
神社に参拝した際に個人個人で奏上する「神社拝詞」です。「何神社」のところは上の画像では「富部神社」になっています。他の神社に参拝する際にも奏上することができますね♪
略祓詞を唱え、神社拝詞を奏上した後、心静かにお祈りすると良いでしょう。
神は人の敬によって威を増し、人は神の徳によって運を添ふ
引用:拝殿案内板
鎌倉幕府制定「貞永式月」御成敗式目第一条より~
左側の案内板にあるのは、神は人々の敬意によってその威厳を増し、人々は神の徳によって運が良くなるという意味でしょうか。
神様が元気になれば私たちの運も良い方へ導かれるのでしょうね。
絵馬とお守り
祈願が済んだら、絵馬に病気平癒の願い事を書くといいですね。
もちろん、その他の心願成就の願い事もできます。
お守りもお忘れなく。
身護木札は神気を浴びた境内の樟(クスノキ)を御用材として一体ずつ丁寧に作られたものです。
身に帯びる事で大神の守護により邪や魔を寄付けないとされています。
富部神社では、病気平癒やその他の願い事に合わせたお守りが豊富に用意されています。
こちらの記事も参考にしてみてください。
富部神社境内の見どころ
明治天皇御駐蹕(ちゅうひつ)記念碑
明治4年明治天皇がご休憩されたときの記念碑
戸部新左衛門の慰霊碑
富部神社の鳥居をくぐると、右側に戸部新左衛門の慰霊碑が祀られています。
富部神社の境内には、平成28年4月に戸部城主であった戸部新左衛門政直の碑が移築されました。
戦国時代、戸部新左衛門は今川義元の家臣であり、織田と今川の戦いで善戦して信長を困らせた武将と言われています。
隣接する長楽寺には、織田と今川が尾張と三河の領土をめぐって争っていた国境線があり、当時の歴史を感じることができます。
信長は、新左衛門を疎ましく思い、織田側に寝返ったという偽書を作り、今川義元に届けました。
義元は偽書を信じ込み、新左衛門に切腹の命を下します。
弘治三年(1557年)、新左衛門は三河吉田(現在の豊橋)でその計略により非業の死を遂げました。
新左衛門の死は、今川義元が桶狭間の戦いに敗れる3年前のことです。もしこの計略がなければ、義元は上洛できたかもしれないと言われています。
新左衛門の功績として、天文18年(1549年)に行われた織田信広と松平竹千代の人質交換の交渉があります。この交渉が無血で成功したのは、新左衛門の尽力によるものとされています。
また、新左衛門は天文年間(1532年~1554年)に長楽寺の諸堂の再建に関わったとされています。
毎年、5月1日の新左衛門の命日前にあたる4月29日には、子孫の方が集まり、富部神社で慰霊祭が行われています。
基本情報
神社名前 | 富部神社(とべじんじゃ) |
住所 | 〒457-0014 愛知県名古屋市南区呼続4-13-38 |
TEL | 052-821-2909 |
受付時間 | 9:00~15:00 |
トイレ | 有 |
駐車場 | 有(3台) |
御朱印 | 有 |
富部神社ホームページ | https://www.tobe-shrine.org/ |
まとめ
富部神社は、病気平癒を願う人々にとって特別な場所です。
この神社には、歴史の重みと大地の自然エネルギーが息づいています。
松平忠吉がこの神社で病気平癒を祈願し、奇跡的に回復した逸話は、神社の創建にも深く関係していました。
富部神社の静寂な空間で心を清め、自分自身と向き合い、健康回復を一心に祈願することで、素戔嗚尊の御加護をいただけるのではないでしょうか。
もし、あなたや大切な人が病気で悩んでいるなら、ぜひ一度富部神社を訪れてみてください。
この神聖な場所で、病気平癒の祈りを捧げることで、心に平穏と希望をもたらしてくれるのではないかと思います。
皆様の健康と幸福を心よりお祈り申し上げます。どうぞご自愛ください。
最後までお読みくださいましてありがとうございました。