村上社のクスノキ-樹齢1000年の歴史を刻む町の守り神

村上社クスノキアイキャッチ画像

名古屋市南区の村上社に、娘と孫の3人で訪れました。

そこで樹齢1000年を超える立派なクスノキに出会いました。

村上社のクスノキは、樹高約20メートル、根回りは約13メートルにも及び、この地域を象徴する存在です。

その姿は、まるで時を刻み、悠久の歴史を見つめ続けているかのようです。

クスノキの周囲は、昔の面影はなく、新しい住宅が建ち並んでいます。

町の風景や人々の生活は、長い年月をかけて移り変わってきました。

しかし、クスノキは今も変わらずそこに鎮座し、その移り変わりすべてを見守っています。

村上社のクスノキは、人々の心を癒し、かけがえのない存在として大切にされています。

この記事は、村上社のクスノキ、アクセス方法、駐車場情報などを紹介しています。

御神木、歴史に興味のある方にオススメです。

孫と村上社で遊んだ時の物語も載せています。

クスノキ横方向
クスノキ横方向
スポンサーリンク
目次

村上社とクスノキの関係

村上社の由来

村上社
村上社
「南区神社名鑑」では

村上社は、八幡社の末社で村上天皇を祀るとあります。

「名古屋市南区の神社を巡る」では

創建、御祭神は不詳とあります。

村上天皇について

926~967年 第62代天皇 在位:946~967年
醍醐天皇の第14皇子

村上社について、下記のような伝承があります。

古鳴海八劔社(こなるみはちけんしゃ)より村上社間を渡船で渡っていた時代、村上天皇は当地で渡船の時間待をされたとき、爪か髪の毛を置いていかれた。その時から「村上社」と呼称されるようになったと伝わります。

引用:南区の神社を巡る 村上社(大楠社)p109より

村上社は、大楠社という別名もあります。

楠町の町名は、この大楠から由来するものだそうです。

村上社の近辺に弥生、古墳、平安、中世時代の「楠町遺跡」がありました。

住居跡遺構(いこう:古い建築物)や平安時代の須恵器(すえき:古墳時代中頃の陶磁器の一種で青灰色をした硬い土器)の出土、鎌倉期の山茶碗が採集されています。

また、村上社は庶民の墓地であったという説もあります。

miko

村上社の名称は、村上天皇がこの地に訪れたことに由来すると言われています。村上天皇の在位中に植樹されたとすれば、クスノキの樹齢は1000年以上と推測されます。

大楠社という別名があることから、クスノキが御祭神なのかもしれません。

村上社のご利益

生命力あふれる大楠にお参りすることで無病息災・健康長寿のご利益があります。

村上社境内
村上社境内

村上社クスノキの1000年の歴史

どんな歴史だったか?

村上社のクスノキは樹齢1000年以上と推定されています。

1000年もの長い間、日本の歴史の大きなうねりを見てきたにちがいありません。

miko

ここでは、クスノキがどんな歴史をみてきたのか考えてみることにしました。

村上社から徒歩10分ほどのところに見晴台遺跡があります。

この遺跡からは、縄文時代の原始的な集落や、古墳時代や奈良・平安時代の住居跡、鎌倉・室町時代の陶磁器などが出土しています。

この地域は太古から人々の暮らしが盛んであったことがうかがえます。

戦国時代、織田信長は桶狭間の戦いに向かう際に、鎌倉街道を通ったとされています。

街道沿いの住民たちは、信長の軍勢をまじかで目撃したのではないでしょうか。

村上社も、信長が勝利祈願のために訪れた可能性があります。

以前は、年魚市潟(あゆちがた)と呼ばれる景勝地(けいしょうち:山や海岸などの自然が作り出した美しい場所のこと)でした。

有名な歌も残されています。

多くの旅人がこの地を訪れ、クスノキのもとでうつくしい風景を眺めたのではないでしょうか。

クスノキは、旅人の心を癒してくれていたのかもしれません。

この村上社のクスノキは、平安時代、戦乱、江戸時代の庶民の暮らし、明治・大正・昭和・平成・令和の現代社会まで日本の歴史のあらゆる時代を、そばで見守ってきたのだろうと考えます。

現在の笠寺公園には太平洋戦争中の高射砲陣地跡などが発掘され、展示されています。

クスノキは激しい戦争も見つめていたのでしょうね。

村上社のクスノキについて、尾張府志(おわりふし)や尾張徇行記(おわりじゅんこうき)などの古文書に、わずかながら記述があります。
(※これらの記述は、いずれもクスノキの歴史を直接的に示すものではありません)

「尾張府志」には、「室町時代、この木のもとが対岸の古鳴海、嫁ヶ茶屋、野並大松への渡船場だったのだろう」と記されています。

「尾張徇行記」では、「鎌倉街道中の道に古い楠があり古鳴海よりの目標の樹だと村人が云っている」と記されています。

miko

土地が高台にあるため、台地(笠寺台地)のふもとには、鳴海や野並方面への船着場があります。また、鎌倉街道沿いにある村上社のクスノキは、旅人の目印として重要な役割を果たしていました。村上社は、旅人の休息や参拝の場所として、重要な存在だったと考えられます。

笠寺台地はどんな場所だったのか?

縄文時代海面上昇により、南区の大半は海だったそうです。

村上社のクスノキは、10mほどの高さの笠寺台地にあります。

笠寺台地は、かつては「松巨島」と呼ばれていました。

これは、台地の上に松の大樹が生えていたためです。

熱田方面から眺めると、松の木々が島のように見えたので、そう呼ばれるようになったと言われています。

村上社から古鳴海の間の入海は鳴海潟です。

熱田を望む方の海は、年魚市潟(あゆちがた)と呼ばれる伊勢湾につながる遠浅の海が広がっていました。

要約:南区の歴史探訪p15、南区の神社を巡るp108参照
   南区のまちの姿 第1南区の概況-なりたち参照

簡易地図

笠寺台地
笠寺台地
名古屋市南区(地盤高)

現在の名古屋市地盤高の地図を参考にして、村上社と古鳴海の位置関係がわかるように手書き地図にしてみました。

この地図の青い部分を古代の海に見立てています。

標高10m前後の緑色の部分が、笠寺台地です。

江戸後期に入ると干潟の開拓が進み、埋め立てられていきました。

miko

地図を描くのは難しいですね(>_<)

笠寺台地から見る景色

笠寺台地の見晴台景色
笠寺台地の見晴台景色

現在、村上社の場所から昔のように景色を一望することはできません。

上の写真は、見晴台遺跡から見た景色です。村上社から見る景色も、このようなものではないかと考えられます。

笠寺公園とその周辺の風景
笠寺公園とその周辺の風景‐名古屋市南区役所

高度成長期を迎えた昭和30年代、この近辺は、まだ豊かな水田が広がっていました。

クスノキは、急速に進展していく日本の近代化を見つめてきたのでしょうね。

町の守り神クスノキ

村上社クスノキ横側
村上社クスノキ南側

村上社クスノキの役割

一般に、クスノキは、樹高が高く伸び、枝も張ることから、防風対策として植栽されます。

また、樟脳(しょうのう)が採れるため、害虫対策としても利用されます。

強くて丈夫なクスノキは、長寿の木、縁起の良い木として神社に植えられています。

樹齢が数百年から千年を超えるものも多く、生命力が強いので長寿祈願をする人もいます。

神社に鎮座するクスノキは、大地にどっしりと根を張り、やすらぎを与えてくれます。

神秘的な存在として、パワーを感じ取る方もいらっしゃいます。

村上社のクスノキは、御神木として崇められ、人々の心に深く根付いています。

近隣の人々は、毎日、お参りをして感謝の気持ちを伝えています。

また、何か困ったことがあると、クスノキに話しかけ、励まされたりしているのかもしれません。

村上社のクスノキは、その大きさと長寿さから、風や害虫から守るだけでなく、近隣の人々や、旅人の守り神として親しまれ、信仰されてきたのではないかと考えます。

小さな孫とクスノキの出会い

村上社クスノキ
村上社クスノキ

村上社のクスノキは、住宅街の中に突如として立ち現れる巨人のようです。

クスノキからは、力強いエネルギーが湧き上がってくるように感じます。

大きなクスノキが、風にそよぐと、葉が優しくざわめきます。

木のそばに立つと、やすらぎを感じ、心が落ち着きます。

この日は、少し寒い日でしたが、太陽の木漏れ日がキラキラと輝き、木の優しさが伝わってきました。

子どもがきたので、歓迎をしてくれたのかもしれません。

とてもいいお参りができて、心が温まりました。

ストーリー

miko

ここでは、小さな孫とお参りした話を紹介します。
クスノキを町の守り神のように感じましたので、そう表現させていただきました。
楽しんでいただけると幸いです(*^^*)

「村上社のクスノキと小さなおともだち」

ある日、神社が大好きな小さな男の子が、ママとおばあちゃんと3人で、村上社のクスノキを見に訪れました。

このクスノキは、この土地と町の人々を見守り始めて1,000年以上が経ちました。

男の子は、クスノキの大きな幹と、天高く伸びる枝と、その枝に生い茂った青葉に、目を丸くして驚きました。

初めて見る大きなクスノキの迫力に、思わず「わぁ~!」と声を上げました。

男の子は、クスノキの周りをきゃっきゃと笑いながらぐるぐる回り、上を見上げて、その姿を眺めました。

クスノキは、まるでこの町の守り神のように見えました。

男の子はクスノキにパンパンと手を合わせて、こう願いました。

「クスノキさん、いつもありがとう。これからも、この町をお守りください」

クスノキは、男の子の願いを聞きいれたように、風で葉を大きくゆらし、葉の間から木漏れ日をさしながら挨拶をしました。

男の子はクスノキと出会えて、とてもうれしくなりました。

クスノキも、小さなおともだちが遊びにきてくれてうれしそうです。

ママもおばあちゃんも幸せそうに大きなクスノキを見上げます。

男の子はクスノキに「また会いに来るね」とおじぎをして話かけました。

クスノキもざわざわと風で葉をなびかせて「またおいで」と答えました。

大木イラスト

村上社クスノキ基本情報

画像はクリックで拡大できます。

クスノキ幹回り
クスノキ幹回り
クスノキの幹
クスノキの幹
クスノキ養生された枝
クスノキ養生された枝
村上社クスノキ外観
村上社クスノキ外観
村上社社殿
村上社社殿とクスノキ
クスノキ根幹
クスノキ幹
クスノキ枝葉
クスノキ枝葉

詳細

名称村上社のクスノキ
住所〒457-0028 愛知県名古屋市南区楠町18
樹齢1000年以上
樹高20m
根回り13.2m
胸高幹回り約10.8m
枝張り東西約22m・南北約20m
指定昭和62年(1987年)6月12日名古屋市の天然記念物に指定

クスノキは、根を張る力が強いため、かなりふくらんでいます。

その根は、地面にしっかりと張り、伸び続けています。

クスノキの根は、見る角度によって、さまざまな表情を見せてくれます。

根の形や色、葉が生い茂る様子に、クスノキの生命力とたくましさが感じられます。

根の部分に養生されている場所があります。

※地面に張った根を踏まないように、注意して歩く必要があります。

クスノキの見ごろ

クスノキは、4月頃に落葉し、赤色の葉をつけます。5~6月に、黄色がかった白色の花が咲きます。
また、9~10月頃に彼岸花も咲くそうです(*^^*)(近隣の方が教えてくれました)

周辺観光

  • 笠寺観音
  • 笠寺公園(見晴台遺跡)
  • 富部神社

笠寺観音と、笠寺公園についての記事も掲載しました!こちらも合わせてごらんください(^^♪

村上社境内

万葉歌碑

万葉歌碑
万葉歌碑

境内の脇に高市連黒人(たけちのむらじくろひと)作の万葉歌碑が建てられています。

歌碑には「桜田へ たづなきわたる あゆちがた 志ほひにけらし たづなきわたる」と書かれています。

「桜田へ向かって、鶴が鳴いて渡る あゆちがたは潮が引いて 鶴が鳴いて渡っていく」という情景を詠んでいます。

この歌は、鶴の美しさや、自然の移り変わる情景を詠んだ歌として、人々に愛されています。

平安時代の旅人が干潟を渡る姿や、美しい干潟の景色を、想像することができます。

東大名誉教授の久松潜一揮毫(きごう:毛筆で文字を書くこと)、南区郷土文化会により昭和48年(1973年)5月に建立されています。

miko

昔この場所は大半が海で、高台から遠くまで望むことができました。この場所は、とても風光明媚な場所だったと思われます。

干潟と鶴

手水鉢

手水鉢
手水鉢

手水鉢の表には、「漱水」(口をすすぐ、うがいをする意味)と書かれ、裏側には、「大正10年12月 牧野徳太郎」と刻まれています。

案内板・信長攻路

村上社のクスノキ案内板
村上社のクスノキ案内板
信長攻路案内板
信長攻路案内板
村上社のクスノキ案内板

クスノキは、常緑高木で、関東以南から台湾、中国、東南アジアまで広く分布。

昭和62年(1987年)6月12日名古屋市の天然記念物に指定と書かれています。

信長攻路案内板

信長攻路」の案内板が設置されています。

これは信長が、桶狭間の戦いでたどった道のりを案内するものだそうです。

miko

信長攻路の説明をします。

永禄3年(1560年)「桶狭間の戦い」が起こりました。

桶狭間の戦いは、織田信長が今川義元を破り、天下統一への足掛かりを築いた戦いです。

その戦いで、織田信長が清州城から桶狭間までを通ったとされる道のりが3つあります。

その街道沿いに鉄板の道しるべを置き、人生大逆転の祈願をして、「信長攻路」を歩くというものが、この案内板の意図するところのようです。

村上社にある鉄板の道しるべも、その道のりの1つです。

織田信長は、今川義元を討つため、熱田神宮で必勝祈願をしたそうですが、村上社にも立ち寄り参拝したかもしれません。

近隣の方から聞いた話ですが、「昔は、この高台から天白川まで見渡せた」とのことです。

信長は、この村上社から鳴海城を見据え、攻略の計画を練ったのかもしれませんね(>_<)

miko

クスノキは、桶狭間の激しい戦いの歴史を見てきたのですね。

信長攻路 桶狭間の戦い人生大逆転街道サイト参照

アクセス

アクセスマップ

スポンサーリンク
目次