笠寺一里塚【名古屋市】東海道の歴史散策と樹齢400年の榎を訪ねて

愛知県 笠寺一里塚 名古屋市

名古屋市南区にある笠寺一里塚は、江戸幕府が東海道沿いに、道しるべとして築いたものです。
歴史がある塚で、樹齢400年を超える立派な榎(えのき)が立っています。

昔、東海道を多くの旅人が行き来しました。
一里塚はその歴史の面影を、今も私たちに伝えています。
また、秋には塚一面に彼岸花が咲き、見どころの一つになっています。

笠寺一里塚は、笠寺観音からも近く、名古屋観光や歴史散策にぴったりのスポットです♪

本記事では、笠寺一里塚の歴史、アクセス方法、そして四季折々の榎の姿を紹介します。
笠寺観音の参拝と合わせてぜひ訪れてみてください。

笠寺一里塚エノキの側面
笠寺一里塚の榎 旧東海道側より撮影
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目次

笠寺はどんな町?

笠寺道標
笠寺西門交差点笠寺観音方面の左側にある道標
笠寺「尾張名所図会」笠寺の歴史案内
笠寺「尾張名所図会」笠寺の歴史案内
miko

「笠寺西門交差点」笠寺観音方面の右側の歩道に歴史案内が設置されています。案内板には、笠寺の歴史と『尾張名所図会』の絵が記されています。笠寺の歴史が簡潔にまとめられていたので、ご紹介します(*^-^*)

笠寺の歴史
 江戸時代の笠寺村は、東海道第四十番目の宿場である鳴海から熱田宿を結ぶ東海道筋にあたり、農業を主な業とし、町並みには、小商家、茶屋などがあった。笠寺観音は、尾張四観音の一つとして人びとにも親しまれ、今も節分などには露店が並ぶにぎわいを見せている。
 寺伝によれば、笠寺観音はもと小松寺といい、天平五年(七三三)浜に流れ着いた霊木に僧禅光が十一面観音像を刻み、小堂を建てて安置したことに始まる。その後荒廃し、仏像が雨露にさらされているのを見た土地の娘が、自らの笠をかぶせた。この娘はやがて藤原兼平の妻となり、その縁によって兼平は堂舎を再興した。これが笠覆寺の名の由来となる。寺はその後再び荒廃したが、嘉禎四年(一二三八)僧阿願が再興した。
 現存する建物は、正保年中(一六四四~四八)に建った多宝塔を最古とし、本堂は宝暦十三年(一七六三)の建立で、その他江戸時代の各時期に建った仁王門、西門、鐘楼、護摩堂及び大師堂などが軒を列ね、密教寺院の特色をよく示している。
 また、笠寺観音境内には、笠寺千鳥塚、春雨塚といった芭蕉碑も残されているほか、笠寺観音から東南約六百メートルの旧東海道沿いに、市内に現存する唯一の一里塚がある。
平成3年名古屋市

引用:笠寺の歴史案内より

笠覆寺(笠寺観音)と東海道

下の写真は、名古屋市見晴台考古資料館内に展示されている「笠覆寺(笠寺観音)と東海道」のジオラマです。
江戸時代の笠寺の様子がよくわかるので、ご紹介します。
(※考古資料館の方から掲載許可をいただいております)

このジオラマは、江戸時代の笠覆寺と東海道街並みを推定復元しています。
笠覆寺界隈の東海道沿いの町は、東海道ができてからの町だそうです。

miko

松並木でしょうか?鳴海へと続く道には、木々が植えられていますね。

笠覆寺(笠寺観音)と東海道ジオラマ
笠覆寺(笠寺観音)と東海道ジオラマ
「明治17年(1884年)地籍図より」

笠寺一里塚の歴史

笠寺一里塚エノキと彼岸花
笠寺一里塚の榎と彼岸花 2024年10月8日撮影
笠寺一里塚案内板
笠寺一里塚案内板

笠寺一里塚

一里塚は慶長9年(1604)幕府が主要街道を整備し、江戸(東京)日本橋を起点に、道程一里(約4km)ごとに道の両側に塚を築き、榎などを植えたもので、旅人に距離を示しただけでなく、荷物その他の運賃計算の基準にもなった。ここは江戸から88里のところにあり、名古屋市内を通る旧東海道に残る唯一の一里塚で、東側の塚だけが現存している。

引用:笠寺一里塚案内板より

一里塚とは?

笠寺一里塚全体
笠寺一里塚全体

慶長9年(1604年)、江戸幕府は幕藩体制確立のため、全国の交通体系を、江戸を中心としたものに整備します。
東海道、中山道、日光街道、奥州街道、甲州街道の五街道には一里塚が築かれました。

一里塚とは、江戸(東京)日本橋を起点に、1里(約4キロメートル)ごとに築造された里程標(りていひょう)です。

お椀を伏せたような形の塚を、道の両側に作りました。
大きさは9メートル四方、高さ3メートルが標準とされました。

塚木には、榎(えのき)、欅(けやき)、松、杉などが植えられました。
遠くからでも目立つため、旅人の道しるべにもなったそうです。
旅人は一里塚を目安に、自分の位置や目的地までの距離を把握したといわれます。

そして、一里塚は当時の交通の仕組みを支えていました。
一里塚を基準にして、籠で人を運んだり、荷物を運んだりする際の運賃の計算に利用されていたそうです。

江戸時代の旅人は、その仕組みを利用して旅の計画も立てたようです。
旅人は、約4キロメートルごとに設置された一里塚をもとに、休憩場所や宿場町を決めたとされます。

一里塚は、織田信長の時代36町を一里として塚を築いたのが始まりといわれます。
豊臣秀吉は、五間四方の一里塚(一辺が約9メートルの正方形の塚)を築いたとされます。

その後徳川家康が、二代将軍秀忠に命じて一里塚を制度化させます。
道も整備され、並木に松や杉が植えられ、悪路には砂利をひいて歩きやすくしたそうです。
道路整備や植樹は幕末まで続けられました。

一里塚には、榎が多く植えられたといわれます。
榎は成長が早く、しっかり根を張るため、土の流出を防ぐ役割があるそうです。
夏には葉が茂り、木陰を提供するため、旅人が涼む場所として利用されました。
さらに、榎の実は食用にもなります。
一里塚は、旅人にとってオアシスのような役割を果たしていたのではないでしょうか。

徳川家康が「ええ木(よい木)を植えよ」と家臣に言ったところ、「エノキを植えよ」と聞き間違えたという説もあるそうですよ♪

笠寺一里塚エノキ幹
笠寺一里塚榎の幹

笠寺一里塚の歴史

笠寺一里塚は、江戸の日本橋から出発して83番目に数える塚です。
江戸から88里の地点に位置し、かつては東と西の両側に塚がありました。
現在は東側だけが残っています。

塚の大きさは、高さ3メートル、直径約10メートルで標準的な大きさで作られました。
西側の塚には、椋木(むくのき)が植えられ、大正時代まで残っていたそうです。

かつて名古屋市内には一里塚が9カ所ありましたが、残っているのはこの笠寺だけになりました。
愛知県内には5カ所あるうちの一つです。

参考文献
榊原邦彦著『南区史跡巡り』古東海道p.22参照
秘伝 名古屋南区「東海道街歩きの書」参照
文:池田陸介 絵:櫻井克郎『南区の歴史探訪』⑬笠寺一里塚p.20参照

旧東海道にはどんなルートがあった?

左側旧東海道
左側は旧東海道。右側は笠寺公園に向かう道
古東海道
榊原邦彦著「南区史跡巡り」古東海道p.24の図を参照作成

旧東海道は、複数のルートが存在しました。
笠寺一里塚がある東海道は、浜道(はまみち)と呼ばれ、海岸に近いルートを通っていたとされます。
文明11年(1479年)の『笠覆寺文書』には、この浜道が古くからあったと記されています。
天文20年(1551年)桶狭間の戦いで、信長が熱田から鳴海へ進撃する際、この浜道は潮が満ちて通れなかったそうです。
迂回路の上野の道を進んだとされます。

榊原邦彦著「南区史跡巡り」古東海道p.22参照

笠寺一里塚までのアクセス

名鉄本笠寺駅から笠寺一里塚までの徒歩でのアクセスを、分かりやすくまとめました♪

笠寺一里塚簡易地図
笠寺一里塚までの簡易地図を作成しました。

公共交通機関:電車
名古屋駅から名鉄名古屋本線各駅停車(4番ホーム)に乗り、約15分で本笠寺駅に到着します。
運賃は330円。(※2024年10月現在)

本笠寺駅から徒歩約13分、1キロメートルの距離です。
笠寺観音からは、徒歩約6分、約600メートルの距離です。

  1. 笠寺観音を出発し、東南方向に東海道(県道222号)を歩きます。
  2. 道なりにしばらく進むと、笠寺一里塚の標識が見えてきます。
  3. 標識を左折すると、笠寺一里塚に到着します。

東海道を歩く

東海道を歩いた様子を順に紹介しますね(*^^*)

名鉄本笠寺駅から笠寺一里塚までを歩く

名鉄本笠寺駅

名古屋鉄道「本笠寺駅」出発地点
本笠寺駅を出て、まっすぐ進む道もあります。 そのまま進んで名古屋市道環状線に出たら左折、「笠寺西門」の交差点を渡って笠寺観音方面へ進みます。

笠寺商店街と旧東海道

笠寺商店街と旧東海道

本笠寺駅を出て北へ、商店街の細い路地を抜けます。 旧東海道(222号線)出たら右折し、「笠寺西門」の交差点を渡って、笠寺観音方面へ進みます。

笠寺観音と旧東海道

笠寺観音西門と旧東海道
笠寺観音の正面にある、西門前のカーブを道なりに進みます。

泉増院と旧東海道

泉増院と旧東海道
泉増院の前の道を東南へ進みます。

旧東海道(222号線)沿い有料駐車場

旧東海道(222号線)沿いにある有料駐車場
有料駐車場から徒歩約2分。約140メートル。
駐車料金:最大料金500円、60分200円
車で訪れた時は、この駐車場が近いです。

笠寺一里塚と旧東海道

笠寺一里塚の標識が見えたら、到着です。

笠寺一里塚から天白橋までを歩く

旧東海道標石「知多郡道」

笠寺一里塚から南へ進みます。カーブを曲がり東へ進みます。
歩道を歩いていると東海道「知多郡道」宿駅制度制定400年と書かれた標石が立っています。
ここから東方向へ500メートル進むと天白橋に到着します。

天白川にかかる「天白橋」

天白橋
橋を渡ると鳴海方面です。
有松一里塚までは、3.9キロメートル。
徒歩で1時間くらい。

天白川

天白川

濁らないのが伝統である。

引用:『南区史跡巡り』p.88より

『南区史跡巡り』には、この川は「濁らない」と記述されているので、実際にのぞいてみました。川は茶色ですが、濁っていません。下の写真は、この川で泳ぐ魚の群れを撮ったものです。

天白川を泳ぐ魚

天白川を泳ぐ大きな魚
川底は泥で濁っているようにも見えますが、水は透明で、魚が泳ぐ姿がはっきりと確認できます。50センチほどの黒い魚(鯉?)が元気に泳いでいました!

東海道・笠寺周辺見どころ満載散歩道

笠寺の観光スポットには、由緒ある笠寺観音や泉増院といった寺院、そして笠寺一里塚があります。
また、一里塚から少し足を伸ばせば、緑豊かな笠寺公園が広がり、そこには見晴台遺跡など、見どころがたくさんあります。

そして、天白橋からの帰り道、歴史を感じる場所がないか、探しながら歩きました。
距離が短かったため、多くは見つかりませんでしたが、いくつかご紹介します♪

東海道分間延絵図

東海道分間延絵図
東海道分間延絵図

江戸方面82番の有松一里塚から笠寺一里塚へ向かう道のカーブ手前に、『東海道分間延絵図』と書かれた案内板が設置されています。
珍しいですね(*^^*)
東京国立博物館所蔵

いぼ地蔵様

いぼ地蔵
いぼ地蔵様・知多郡道と書かれた標石がこの前に置かれています。
〒457-0051 愛知県名古屋市南区笠寺町下新町1

お地蔵様は、天白橋から500メートル進んだ、加藤サイクルさんの横に建てられています。
道標には、「奉納」「知多郡道」と書かれているようです。(道標はかなり土に埋まっています。昔のお賽銭いれでしょうか?古いもののようです)
この知多郡道は、尾張藩主が知多郡巡行に用いた道だといわれています。
榊原邦彦著「南区史跡巡り」古東海道p.87参照

いぼ地蔵様前の道標
地蔵様前の道標

歩道にある東海道をイメージした絵

旧東海道を歩いていると、歩道に東海道をイメージした絵が描かれていたので、3つご紹介します。

旧東海道コンクリートに書かれた東海道旅人の絵
旧東海道歩道に書かれた東海道旅人の絵
旧東海道コンクリートに書かれた笠寺一里塚の絵
旧東海道歩道に書かれた笠寺一里塚の絵
旧東海道コンクリートに書かれた絵
旧東海道歩道に書かれた松並木の絵。熊野三社付近のもの

笠寺観音(天林山笠覆寺)

笠覆寺山門(仁王門)
笠覆寺山門(仁王門)
笠寺観音仁王門
笠寺観音仁王門
徳川家康幼少期人質交換の地石碑
徳川家康幼少期人質交換の地石碑

笠覆寺多宝塔前「徳川家康人質交換の地」の石碑

徳川家康(幼名:竹千代)は、幼少期に今川家の人質となりました。
これは、織田信秀に対抗するために、父・松平広忠が今川義元と同盟を結んだことにあります。
家康は6歳の時に人質として今川家に送られることになります。
その道中、織田家に連れ去られますが、天文18年(1549年)今川家の捕虜だった織田信広と竹千代の人質交換が笠寺観音で行われました。
人質交換は無血で交渉が進められ、竹千代は無事に駿府へいくことができたそうです。

泉増院(せんぞういん)

泉増院の庭は美しく、静寂に包まれています。
お参りに訪れると心が癒されます。

泉増院庭園
泉増院庭園

笠寺観音や泉増院に関する記事はこちらをご覧ください!節分前夜祭の様子や御朱印についても紹介しています。

笠寺公園

笠寺一里塚からは約250メートルの距離で、徒歩約4分ほどです。

西側の展望と笠寺観音
西側の展望と笠寺観音
高射砲の砲台跡(こうしゃほうのほうだいあと)
高射砲の砲台跡(こうしゃほうのほうだいあと)

笠寺公園や、3月の梅の見頃に関する記事も紹介していますので、ぜひご覧ください。

東海道を歩いた感想

旧東海道
旧東海道(222号線)

笠寺一里塚を訪れたついでに、旧東海道を歩いてみました。

名鉄本笠寺駅から天白橋までの約1.5キロ。
「この道を昔の人々が旅をしたのだろうな」と思いながら散策しました。

笠寺観音など歴史ある場所を巡りながら、町の雰囲気を楽しみました。

散策中、鳴海方面から歩いてくる人たちとすれ違います。
グループで歩いている人や、1人で黙々と探索している人など、多くの人が歴史に興味を持ち、東海道のルートをたどっていることを知りました。

鳴海から京都方面へと続く道は、一里塚や笠寺観音の多宝塔などが見られ、どこか懐かしい風景が広がっています。

江戸時代の人々は、この道を歩きながら、遠く離れた地を目指したのだろうと想像します。
笠寺を通る東海道には、一里塚が築かれ、松並木が続き、周囲には広々とした田畑が広がっていました。
旅人たちは、歩き疲れると木陰でひと休みし、ゆったりとした時間を過ごしたのでしょう。
そんな昔の穏やかな時間に思いを馳せて、ほんの少しだけその雰囲気を味わえたような気がします。

今回の短い体験を通して、東海道を歩く楽しさも知りました。
機会があれば、他の東海道も歩いてみたいと思います。

旧東海道沿い民家「三猿」置物
旧東海道沿い民家「三猿」置物

民家の前に置かれたおさるさん。

おふくろの味「大橋屋」さん

笠寺小料理「大橋屋」
笠寺の小料理大橋屋さん
大橋屋さんの日替わりランチ
大橋屋さんの日替わりランチ

笠寺一里塚や笠寺観光の帰りに、ほっと一息つけるお店でランチはいかがですか?
おふくろの味「大橋屋さん」
〒457-0051
愛知県名古屋市南区笠寺町西之門69
日替わりランチ 500円 14席
(※2024年10月14日現在)
一里塚を見た後、大橋屋さんでお昼ご飯をいただきました。
のれんをくぐると、お母さんが元気いっぱいの明るい声で「いらっしゃいませ!よく来てくれましたね!」と迎えてくれました。元気をもらって、思わず笑顔に♪
料理も味がしみていて、とても美味しかったです♪
帰り際、「いいご縁がありますように!」と声をかけていただき、温かい気持ちでお店を後にしました。
ごちそうさまでした(*^^*)

榎の四季

一里塚冬エノキ冬
一里塚エノキ冬

冬になると葉や草が枯れ、榎が塚の上でしっかりと根を張っている姿が見られます。
また、幹が割れて空洞になっている様子もわかります。
伊勢湾台風の被害で、木の幹に大きな裂け目が入り、内部が空洞化してしまったそうです。
地域住民の方々が、この榎を守るために、寄付金を募り修復作業が行われました。

一里塚エノキ春
一里塚榎の夏
彼岸花
一里塚榎の秋

彼岸花の見ごろ

秋になると、塚には真っ赤に咲き誇る、彼岸花を見ることができます。
2024年は暑さの影響で遅咲きでした。
10月8日に訪れた時は満開でした♪

10月2日に撮影の一里塚
10月2日に撮影。彼岸花が咲き始めています。
10月4日に撮影の一里塚
10月4日に撮影。彼岸花は5分咲きくらいです。
10月8日に撮影の一里塚
10月8日に撮影。彼岸花は満開になりました。

基本情報

名称笠寺一里塚
所在地愛知県名古屋市南区白雲町75
樹木榎(えのき)(都市景観保存樹)
樹齢約400年
木の高さ10m
幹回り3.8m
塚の高さ3m

まとめ

樹齢約400年の榎が立つ笠寺一里塚は、かつて東海道を旅する人々の道しるべでした。
そして、名古屋市内に現存する唯一の一里塚でもあります。

笠寺一里塚の榎は、幹に大きな空洞を抱えながらも、地域住民の方々が支え、今も力強く生きています。
夏には緑葉が茂り、秋には彼岸花が咲き誇る姿は、訪れる人々の心を癒やします。

この老木は、長い間この場所を通る人々を見守り続け、安らぎを与えてきました。
これからも、人々に愛され大切にされながらこの地に根を張り、この先も歴史を刻んでいくのだと思います。

miko

笠寺一里塚の榎が、長生きをして後世につなぐ貴重な史跡として残っていってほしいですね。

笠寺観音へお参りの際は、ぜひこちらの笠寺一里塚も散策してみてください。
この記事を最後までお読みくださりありがとうございました。(#^^#)

参考文献

著作 榊原邦彦『南区史跡巡り 二』発行者 寺西貴史p. 22~p. 24 p. 70~p. 71 p. 87 令和三年十月十四日発行
文:池田陸介 絵:櫻井克郎『南区の歴史探訪』発行人:舟橋武志 ⑬笠寺一里塚p.20 昭和六十一年三月
名古屋市南区『東海道街歩きの書』パンフレット コラム「市内唯一の一里塚」参照

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